1962年の阪神タイガース(1962ねんのはんしんタイガース)では、1962年の阪神タイガースにおける動向をまとめる。
この年の阪神タイガースは、シーズン途中で就任をした1961年を含めて、藤本定義監督の2年目のシーズンである。
概要
1リーグ時代の1947年を最後に優勝から遠ざかるチーム立て直しのため、藤本監督は自らの教え子である青田昇を打撃兼ヘッドコーチに招聘。また投手陣でも前年不振だった小山正明が開幕から勝ち星を重ねれば、2枚看板の村山実も勝ち星を重ねて好調だった。打撃陣では三宅秀史・吉田義男の1・2番コンビが健在で、4番にはマイク・ソロムコ、さらに下位打線にはルーキーの藤井栄治やバックトスの名人・鎌田実が控えたが、全体ではやや低調だった。チームは開幕から大洋と首位争いを展開し、9月6日の三宅の負傷脱落で戦力が落ちた次の試合から6連敗で7月半ばから走っていた首位を大洋に明け渡し、再び首位を奪い返したが最後の直接対決で相手エース秋山登に2日連続完封を喫し、再び首位を明け渡すなど一進一退の攻防が続いた。最後の直接対決を終え大洋にマジック6がついたが、その直後の国鉄3連戦(甲子園)に3連勝し、逆に大洋は巨人3連戦(後楽園)で3連敗を喫し阪神に逆マジック1が点灯、次戦の10月3日の広島戦(甲子園)で勝利し藤本監督の胴上げがようやく実現した。小山と村山の両エースは、チーム75勝中52勝を上げた。日本シリーズは巨人時代の教え子である水原茂監督率いる東映との師弟対決となり、第3戦まで2勝1分と好調だったが舞台が明治神宮野球場と後楽園球場に移ると打線が東映投手陣の前に沈黙。第4戦以降は4連敗を喫し、藤本監督の日本一は夢と消えた。
チーム成績
レギュラーシーズン
日本シリーズ
入団・退団
シーズン開幕前
本節では、前シーズン終了から本シーズン開幕までの入退団について記述する。
オールスターゲーム1962
- 太字はファン投票による選出。取り消し線は出場辞退した選手。
選手・スタッフ
試合結果
※日付の後の(a)はダブルヘッダー第1試合(b)はダブルヘッダー第2試合
※セーブ制度は1974年から
個人成績
投手成績
※色付きは規定投球回数(186イニング)以上の選手
- 太字はリーグ最高
- 完封合計は継投も含む
打撃成績
- 色付きは規定打席(412打席)以上の選手
- 太字 はリーグ最高
達成記録・出来事
- 4月22日 - 三宅秀史が中日3回戦(甲子園)で先発出場し通算1000試合出場
- 7月12日 - 国鉄14回戦(後楽園)で村田元一に9回二死までパーフェクトに抑えられ、27人目の打者・西山和良が安打を放ち大記録の難を逃れる
- 7月17日 - 広島15回戦(広島市民)で6回に弘瀬昌彦から並木輝男―藤本勝巳―三宅秀史が1953年4月16日の洋松2回戦(日生)以来の3者連続本塁打、球団史上2度目
- 7月19日 - 小山正明が広島17回戦(広島市民球場)で先発し9回無失点で完封勝利をあげ通算150勝
- 7月21日 - ジーン・バッキーの入団が発表された
- 7月29日 - 小山正明が巨人14回戦(甲子園)で先発し3回に王貞治などの本塁打で3失点を喫し、7月7日の中日16回戦(中日)から続いていた連続無失点記録が47でストップする
- 8月11日 - 村山実が巨人15回戦(後楽園球場)で7回を投げ通算1000投球回、史上95人目
- 9月6日 - 三宅秀史が大洋23回戦(川崎)試合前のキャッチボールで、小山正明の送球を左目に受けて、5針を縫う裂傷。川崎市民病院での精密検査の結果、打撲傷で全治3 - 4週間と診断される。そしてこの日の大洋戦は三宅に代わり朝井茂治が出場、この結果、1956年4月11日の大洋3回戦(川崎)から始まった三宅の連続試合出場が「882試合」、1957年7月15日の広島12回戦(甲子園)から始まった三宅の連続イニング試合出場が「700試合」で、共に途絶えた。
- 10月3日 - 広島26回戦(甲子園)で勝利し1947年以来15年ぶり2リーグ制以降では初めての優勝決める
- 10月3日 - 小山正明が広島26回戦(甲子園)で完封勝利を挙げ年間13完封目、2リーグ制以降では1961年の権藤博(中日)が持っていた年間完封勝利数の新記録
- 10月21日 - 10月13日から始まった日本シリーズは東映に2勝4敗1分で敗れる
表彰選手
脚注
注釈




