竹下 豊次(たけした とよじ、1887年(明治20年)2月2日 – 1978年(昭和53年)4月25日)は、大正から昭和期の官僚、政治家。貴族院多額納税者議員、参議院議員(緑風会)。

経歴

宮崎県、のちの南那珂郡福島町(現串間市)出身。1911年(明治44年)、東京帝国大学法科大学独法科を卒業し、大学院に学んだ。1912年(大正元年)高等試験行政科に合格し、翌年に福岡県属警部となった。以後、同県警視、製鉄所副参事、同参事、農商務省工場監督官、同書記官・工場課長を歴任した。1922年(大正11年)、国際労働会議政府代表道家斉の随員として渡欧。国際労働機関に勤務し、第5回及び第6回国際労働会議の政府代表顧問を務めた。

1924年(大正13年)に帰国し、社会局書記官、長野県警察部長に在勤。 1926年(大正15年)、長野県下の警察署の統廃合を契機に抗議運動が活発化(いわゆる警廃事件)。同年7月18日、群衆が県知事公舎や警察部長官舎を襲撃、官舎にいた竹下は下駄や棍棒などで殴打された。同年8月、依願免官。 1928年(昭和3年)、台湾総督府社会課長、同地方課長を歴任し、勅任事務官に昇進した。1932年(昭和7年)、台中州知事に就任し、1935年(昭和10年)には関東州庁長官に転じた。

退官後の1939年(昭和14年)に貴族院議員に選出され、1947年(昭和22年)に貴族院が廃止されるまでその職にあった。同年の第1回参議院議員通常選挙に出馬し、当選。第3回参議院議員通常選挙でも再選を果たした。その間、第2次吉田内閣で労働政務次官を務めた。

1964年(昭和39年)秋の叙勲で勲二等旭日重光章受章(勲三等からの昇叙)。

1978年4月25日、老衰のため東京都世田谷区田園調布の自宅にて死去。91歳。死没日をもって従四位から従三位に叙される。

脚注

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第11版(下)』人事興信所、1937年。 
  • 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
  • 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。 

関連項目

  • 警廃事件

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竹下英治 — 福岡維新の会